「慈悲」という言葉がある。

慈悲という言葉の意味は、父と母が、子供にかける思いやりの気持ちを、そのまんま表現しているのだと教えてもらった。
慈 というのは、人を喜ばせてあげたい とか、人の喜びを自分のことのように喜ぶ気持ち という意味。
悲 というのは、人の苦しみや悲しみを、取り除いてあげたい とか、人の苦しみを自分のことのように感じる気持ち。

そして、父親というのは、子供を思うとき、「慈」の部分が強く現れ、母親というのは、「悲」の部分が強く現れる。
子供を育てていくとき、この両方の気持ちが、どちらも大事なのだそうです。
「慈父」とか「悲母」という言葉があるように、父の持分、母の持分があるんですねー。

私は、たまたま父親の持つ「慈」の部分を聞くことができたのだけど、子供の喜ぶ顔が見たい という気持ちは、例えば、子供が何かでつまづき、前へ進めないでいるとき、押し出してあげる そんな気持ちにも繋がるのだそうです。それは、子供が、目の前のことを乗り越えたときの、嬉しそうな姿を見たいというところから来るんですね。

なぜ、仏教では、慈悲という言葉を使うのか・・・。
我が子にかけるような気持ちを、今、私の目の前にいる人にも、同じようにかけることができたら、あったかい世の中になるんだろうな。
最近、何をしても、マイナスイメージしか湧かず、愚痴になることが多かった。
始まりは、旦那。。。私の旦那は、とてもがんばる人。なのに、すごく理不尽な扱いを受けることが重なった。
不満や怒り、愚痴が、蓄積されていくのがよくわかった。
例えば、怒りの相手が会社だとすると、私だったら、何かの形で会社に反発をしているかもしれない。
だけど、あの人は、夜、私に、言いたいだけ気持ちを吐き出して、翌朝になると、またいつもと同じように、普通の顔して会社に行ってしまう人。
そんな毎日の中で、私の気持ちだけが取り残されていった。
私は、朝になったら、また新しい気持ちで一日を始めるということが苦手らしい。
引きずる気持ち。。。

心というのは、連鎖反応みたいなもので、どこかで気持ちを切り替える努力をしないと、不満、怒りが延々と続く。何をしても、どこへ行っても、気持ちを切り替えない限り、同じなのだ。つまり、縁とか条件を変えるのでなく、自分の心を変えていくのだ。

私たち夫婦は、思うようにならなくなったり、行き詰ったりすると、投げ出してしまうことが多かった。でも今は、そうではなく、二人で一緒にがんばって前へ進もうとしている。家で気持ちを聞いてくれる奥さんがいるから、旦那さんは、気持ちを切り替えて前に向かえるのだろう。そういう意味では、不満を募らせてしまってる私より、旦那の方が、今は修行しているのかもしれない。

佼成会の人から、こういう意味のことを教わった。


その翌日、家に人が来ることになっていた。
約束の時間は、10:30。
しかし・・・時間になってもこない。気がつくと携帯に留守電が入っていた。

「これから出ますので、遅くなります。」AM10:32

また、苛立ちの気持ちがムクムク出てきた。遊びに来るわけではないんだから、時間は、きちんと守ってほしい。という気持ち。

でも。。。「触れる縁は、全部、自分にふさわしい縁」「旦那さんの方が修行しているんじゃないか。」

この二つの言葉が浮かんだ。
ここで不満を募らせて待つだけでは、修行ではないな~。。。何が私にふさわしいのだろう。。。



ふと。。。昔のことが思い出された。とても時間にルーズな私。。。
15分20分くらい人を待たせることは、何とも思わなかった。

でも、一人の人との出会いが、私に大きな影響を与えてくれた。
とても時間に厳しい人だった。約束をしたら10分前には待っている人。

私は、よく怒られた。
当然だ。。。10分前に来る相手。15分は遅れてくる私。軽く25分の空白ができてしまう。

その人のおかげで、それから何年後かの私は、とても時間を守れる人間になっていた。


自分にとって、ふさわしい縁。自分に、必ず何か気づきを与えてくれる縁ということだ。

でも、それを探そうとしない人には、気づきなんて、永遠にない。。。

その夜の旦那の話す内容は、いつもと全然違った。

周りの人が、すごく助けてくれたり、心遣いをしてくれたことが、すごく有難かった。と言うのだ。
不満を吐き出す旦那は、もういなかった。



いや・・・最初から、不満を言う旦那なんていなかったのかもしれない。

すべては、私が見た旦那。私の見方次第で、どうにでも変わるのだ。
こんな話を聞きました。

最近、子供が親を殺すとか、大人が小さな子供を殺すとか、悲惨な事件が続いてますね。

どう感じますか?
どんな育てられ方をしたのか・・・とか、今の世の中はおかしい、とか、マス○ミが騒ぎすぎるんじゃないのか とか。
たしかに、ちょっと前までは、一つの事件が起こってから、次に事件が起こるまでというのは、ある程度、期間があいていて、つまり、今のように頻繁じゃなかったと思います。

なぜ。。。という疑問があります。

だけど、少し、自分を振り返って考えてみてください。
自分が小さい頃、どんなマンガを読んだでしょう。どんなゲームをしたでしょう。どんなドラマや映画を観てきたでしょう。
マンガ、ドラマ、映画、ゲームの中で、悪者をいっぱい倒しましたよね。
ゲームなんて、敵を倒さないと先へ進めないものってたくさんあります。
それに、自分で死にたいって思ったことはないでしょうか。
逆に、あの人さえいなかったら・・・って思ったこともなかったでしょうか。

誰だって、そんな風に思うこと、たくさんあります。
では一体、今までに、どれだけの人が、自分の心の中で殺されてきたか。

今の世の中で起こってることは、全部、過去に、私たちが心の中で思ってきたことが、現実として現れているだけ。。。
心の業。


ものごとの、一つの受け止め方として、自分と人とを切り離さず、こんな風にとらえていくと、「あの人の問題」とその人、ひとりを責めることはできません。
だって、私だって、現実化していないだけで、心の中では、たくさん人を殺してきたのです。
同じ心を持っているってことだと思うのです。
同じ可能性を持っているということだと思うのです。
だから、自分の中の「まごころ」を育てることは、何よりも大事。


「世界全体が幸せにならないうちは、個人の幸せはあり得ない」

宮沢賢治さんは、そういうことを言っているんだと思います。
友達に勧められてmixiを始めました。mixiは登録をした人でないと、見れない仕組みになってるので、ここで私と、一回でもやりとりをした方、知り合い、お友達の方で、『私もmixiに登録したい』と思う方は、ここにコメントくださいね^^ mixiは、日記を書いたり、共通のものとか、共通の趣味、好きなものなどを持つ人同士が集まれるコミュニティというのがあったりします。 このブログは、一応、私なりのこだわりがあるので、基本的には、内容は違ったことを書いていきますが、同じことをそのまんま載せることもあります。
娘のことで悩んでいる一人の母親が、ある先生のもとを訪ねました。
先生は母親に聞きました。

「娘さんとは、依存しあえる関係ですか?」

依存しあえる関係・・・・・。
って、どんな関係だろう。
母親は、先生の言われる意味を、来る日も来る日も考えました。
わからないまま数日が過ぎ、また先生のもとを訪ねました。
先生は
「夢を見ましたか?」
と聞いてきました。
母親は
「先生が言われる『依存しあえる関係』とはどういう関係なのか、ずっと考えていて、夢を見る余裕もありませんでした。」
と答えました。
すると先生は
「では、夢を見てください。」
と言われました。
また、あるときは、
「絵を描いてください。」
と、先生は、母親が悩んでいる娘のことには、何一つふれようとしませんでした。
母親は、だんだんと、先生のもとに通うことを『楽しい』と感じるようになりました。
なぜなら、先生のもとに通っている間は、娘のことを忘れていられるからです。

何日か過ぎたある日、先生は言いました。

「娘さんと、依存しあえる関係ですか?」

あ・・・・・私は、今、先生に依存している。
母親は、先生が言う『依存』という言葉の意味が、やっとわかりました。
涙が流れました。
でもそれは、今までの辛い涙とは全然違います。

『娘はきっと、こういうことを自分に求めていたんだ。』
『どうしてわかってあげられなかったんだろう。』

その日を境に、母と娘の間には、今までにはない、とっても穏やかな時間が流れるようになりました。

ーおわりー

なんか心にじわっとくる話しだなぁって思うのは、私だけ?
この先生は、母親の「娘にとらわれてる心」を、とらわれから解き放ってくれたんですね。
とらわれがなくなると、それまで「苦」だと感じていたものが、一瞬にして「苦」ではなくなる。だけど、どーすれば、とらわれが消えるのか、みんなわからないでいるんだと思う。
逃げるのではなく、とらわれからの解放。
それは、自分ひとりの世界に閉じこもらないことが、大事なことだろう。
なるべく外へ出て、学ぶチャンスを作ることは大事だろうな。
結局、「とらわれ」なんて、自分の価値観から出ているものだから、自分以外の人の価値観を学ぶことも大事なのだ。と思う。